ソロモンの偽証

ソロモンの偽証を観た。
http://solomon-movie.jp/

あらすじは他のブログに譲るとして、感想をいくつか。

※以下、ネタバレを含みます。

1.結局、真相は分からない。
 裁判で提出される証拠は、そのほとんどが証言で(物的証拠は、公衆電話の通話記録くらいか)、証言の内容が真実なのかどうかは結局のところ分からない。神原は、柏木を屋上で見捨てて立ち去ったと証言しているが、神原が逆上して柏木を突き落とした可能性だってある。
 その意味で、映画を見終わった後、モヤモヤ感が残った。

2.タイトルの意味
 「ソロモンの偽証」、意味深なタイトルである。僕は結局、このタイトルの意図するところが分からなかった。「ソロモン」「偽証」は何を指すのだろうか。

 著者は、新潮社のインタビューで、以下のように語っている。

ソロモン王というのは、神託を受けて人を裁くことを許された人物。それを「偽証」で受けたタイトルですが。


宮部 私の場合、いつもアイデアと一緒にタイトルが出てくる。これが同時に出てこない作品って、大抵ポシャるんです。今回は幸いにも全くブレなかった。敢えて説明してしまうなら、そうですね、最も知恵あるものが嘘をついている。最も権力を持つものが嘘をついている。この場合は学校組織とか、社会がと言ってもいいかもしれません。あるいは、最も正しいことをしようとするものが嘘をついている、ということでしょう。

 藤野は、自分の信念に従い、学校内裁判を決意する。しかし、そんな藤野でさえ、いじめを見て見ぬふりをしてしまう。「偽証」とは、柏木の言う、「口先だけの偽善者」による偽善的な発言を指しているのだろうか。「偽証」は裁判用語なので、ちょっと違和感はある。
 それとも、裁判で偽証した三宅のことを指すのか。しかし、それも違う気がする。
 あるいは、劇中明らかにはなっていないが、実は裁判で偽証した人物が存在する、ということだろうか。1.で述べたように、実は神原の証言は偽証、と考えるのは深読みし過ぎか。

3.信念に従えなかったとき、我々はどうすれば救われるのか
 この映画を観て一番に感じたことである。人は自分の信念に従って生きている。しかし、もちろん、信念に従えないこともある。そんなとき、どうすれば良いのか。藤野はいじめを見て見ぬふりをしてしまった。神原は、友人を見捨て、立ち去ってしまった。津崎校長は、生徒を死なせてしまった。森内先生は、生徒を死なせてしまったばかりか、扱いにくい生徒が死んで、安堵の感情を抱いてしまった。大出は三宅をいじめて追い詰めてしまった。
 みな思い悩み、裁判でそのことが白日の下にさらされ、裁きが下された。そうしてみな、救われた。
 やはり、人を救えるのは、結局人なのだと思う。教会には懺悔室があると聞く。色々と宗教的な意味づけがあるのだろうが、人間のこうした性質をよく理解していたからこそ導入された制度なのだと思う。日本にはそうした制度は無い。当然、学校や会社で裁判が開かれることもない。だとすれば、我々は、信念に従えなかったとき、どうすれば救済されるのだろうか。
 日本は恥の文化。なおさら、人からの救済を受けにくい。日本の高い自殺率と何らか関係があるのだろうか。だとすれば、日本人にとっての救済は「死」、ということになるが・・・。